『田園の詩』NO.21 「田舎の変化」 (1994.11.15)


 昔、といっても私の記憶を基準にしているので、三十数年前の子供の頃と比べて、
現在では田舎は変わったのでしょうか。

 同年の仲間や地区の古老と話してみて、議論の分かれるところです。私は、この村
に関する限り、ほとんど変わっていないと思っています。

 七年前にUターンした時、田舎はちっとも変っていないな、と感じました。浦島太郎の
ように、帰って来たらその変化にびっくりするというパターンとは全く逆の感想を私は
持ちました。

 かたや、多くのお年寄りは「昔と変わっちしもた」といいます。僅かな変化の中で暮
らし続けてきた人々が、かえって、その変わり様を大きく感じているのは不思議です。

 確かに、馬車が自動車になり、牛に替って機械で田を耕します。道は舗装され、
小学校は新しく建て替えられました。


    
    今年は雨が適当に降り、池の水を出す前から、自由に川の水を取ることができるので、
    順調に田圃の仕事が進んでいるようです。大きな機械が走り回り、広い田圃が見る間に
    水田に変わります。乗る機械がほとんどなので、一度も泥田に足を入れることなく、
    お米が作れそうです。        (08.5.25写)


 しかし、田舎の人々の意識の変化はちっともなされていないようです。所謂「出る杭は打
たれる」式の事例をよく聞きます。皆から率先して何か新しいことをやろうとする者がいる
時、必ず足を引っ張るような陰口がなされます。そんな中で、「出すぎた杭は打ちようがな
い」といって頑張る若者も現れてきました。頼もしいかぎりです。

 自然環境も、あまり変化のないまま残されていました。空気の清さや星屑の輝きなど、
いちど都会で暮らした者にとっては新鮮な驚きです。

 小学校までの通学路は昔と一緒です。ある時、次男が「途中、川で、青い鳥を見たよ」
というのです。二人で調べてみたら、あのコバルトブルーに輝くカワセミでした。以前、
写真集で感激して一度は本物を見たいと思っていた鳥がすぐ目の前にいたのです。
「 よくみれば なずな花咲く 垣ねかな 」という俳句を思い出します。

 残された自然も、多くの事例が示すように、喪失の危機を孕んでいます。変えるべきこと、
変えてはならぬことを、しっかりと見定めていきたいと思っています。 (住職・筆工)

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